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マリ-・アントワネットの理想の村里

プチ・トリアノンでは、マリ-・アントワネットはヴェルサイユ宮殿の華美と仰々しさ、煩わしいエチケットと王妃の義務から逃れ、繊細で軽快でエレガントな空間をひたすら創り上げた。愛らしい彫刻、花びらが舞うような肖像画、光沢のある絹、淡く優しい色調の18世紀の至福と戯れるロココ芸術の粋に包まれていた。王妃は煩わしい仕事や、国家、夫、宮廷のすべてを忘れて、コルセットを取り去り、薄い透けるようなモスリンのドレスをまとい、何も考えずに限られた取り巻きの友人達と自分の世界に生きていた。 ジャン=ジャック・ルソ-(1712-1778)が「新エロイ-ズ」を発表したのは1761年であるが、この愛と自然を謳った小説はベストセラ-となった。彼の“自然に帰れ”という思想は社会に大いなる影響を与えた。人々はル・ノ-トルが造った自然まで形式に押し込めた緑の幾何学のようなフランス式庭園にはもう食傷気味で、ルソ-はその時代の不満を感じ取って、この小説の中で“自然公園”という言葉で人々のイマジネ-ションを揺さぶった。貴族たちはこぞってこの言葉に刺激され、自然の光景を競い合って創造し始めた。 コンデ公がシャンティの領地に村里を建設したのは1774年であった。運河が張り巡らされ、人工的な小川が流れる美しい背景の中に数件の木組みの田舎家が佇む村里であった。田舎家の中は豪華な食堂やビリヤ-ドなどが設けられていた。マリ-・アントワネットも招待客リストの重要な一人であった。マリ-・アントワネットはコンデ公が創り出した村里と田舎家にいたく感動した。彼女も“自然の庭園”を造りたいと心から思った。 マリ-・アントワネットは、プチトリアノンを囲む数平方キロメ-トルの領地に、彼女が好むあらゆる“自然”の世界を実現したいと思った。王妃の肝いりのこの計画は、画家のユべ-ル・ロべ-ルがうっとりするような下絵を描き、建築家リシャ-ル・ミックの采配で、数百人の労働者達が人工的な“自然の田園風景”を造り上げて行った。愛らしい小路、白鳥が泳ぐ人工の池、詩的な小川のせせらぎ、愛の洞窟、岩山、藁ぶき屋根の田舎家、鶏小屋、鳩小屋、厩舎、などが劇場の舞台背景のように配置された。そして本物の農民夫婦とその子供たち、乳しぼりの娘、子牛、豚、ウサギ、羊飼い、などもまるで芝居の脇役のように配置された。勿論主役はマリ-・アントワネットである。王はここではまるで端役であった。 建物は外側はいかにも貧しく荒れ果てたように見せるために、壁はハンマ-でひびを入れ、漆喰の壁は、所々剝がし落とし、屋根板は数枚取り外して、絵のように古びた風景を醸し出していた。しかし、家々の内部は美しい鏡が掛けられ暖炉があり、王妃の好きなビリヤ-ド台が運び込まれ、座り心地の良い長椅子が用意された。動物たちは王妃がさわっても汚れないように磨き込まれ、一緒に散歩するヤギにはブル-の絹のリボンが首に付けられた。搾りたてのミルクはセ-ブル焼きの磁器に入れて差し出された。 村里だけではなく、小さなオペラ劇場がルイ15世の植物温室跡に建てられ、マリ-・アントワネットとルソ-が出会う という芝居までが演じられた。 このマリ-・アントワネットのジャン=ジャック・ルソ-遊びの決算書は1791年に出されたが200万リ-ブル(30億円以上)を越えるものになった。既にフランスの国庫は破綻をきたし、当時の一般大衆の悲惨な生活から言えば、法外な支出であった。王妃の気まぐれがエスカレ-トしてもルイ16世は彼女に何も言えないのであった。 マリ-・アントワネットはヴェルサイユの儀礼と式典に苛立ち、それらを退屈と退け顧みず、プチ・トリアノンと村里建設という夢の人工の“自然”の世界に遊び戯れた。 廷臣たちはヴェルサイユに置き去りにされ、そのことは彼らの生きる意味さえ奪うようなものであった。彼らは憤懣を募らせ高慢な王妃の態度に対して、反王妃の態度を鮮明にしていった。 かつては、洗練された生活様式と宮廷儀式を学ぶためにヨ-ロッパ中から人々がいそいそとやってきたが、今やルイ14世の栄華の宮殿はプチ・トリアノンの周りの田舎の村以上の存在ではなくなってしまった。マリア・テレジアは娘に書き送る。「体面を保つのは退屈かもしれないが、それを怠ると今に大変なことが起こる」と。しかしマリ-・アントワネットにとってこれは理解の外であった。 フランス中のヘボ作家たちはマリ-・アントワネットの中傷パンフレットが一番の収入になるので、こぞって悍ましい中傷記事を書いた。そしてこの中傷パンフレットの氾濫は全フランスをあげて、マリ-・アントワネットを徹底して憎くんで行く結果になっていった。マリ-・アントワネットはこれらの恐ろしい危険の淵に立ちながら、高邁さを固持するかのように無視したのである。 忍び寄る不穏な世の動きに止めを刺したのが、ロアン司祭が起こした首飾り事件であった。(次のエピソ-ドに続く) 筆:平井愛子 フランス政府公認ガイド ソルボンヌ・パリ第4大学美術史-考古学学部修士、DEA(博士課程前期)、エコ-ル・ド・ル-ヴル博物館学

マリ-・アントワネットの愛の隠れ家-プチ・トリアノン

1774年5月10日午後3時半、ルイ15世の寝室の窓辺に置かれたろうそくの火が消えた。その瞬間、「王様は死んだ、王様バンザイ」の叫び声とともに、ルイ・オーギュストはルイ16世になり、マリ-・アントワネットは王妃になった。 マリ-・アントワネットは王妃となって、母マリア・テレジアに書き送る。“お母さまの末娘である私を、ヨ-ロッパ一美しい国の王妃にお選びになった神の摂理には驚きを禁じえません。”と手放しの喜びを伝えた。マリア・テレジアは君主として王冠の重みを十分に経験してきただけに、浮かれて喜んでいるだけの我が娘の姿が目にみえるようで、暗澹たる思いにならざるを得なかった。マリ-・アントワネットとのその後のやり取りで、フランスの新国王は結婚生活においても、宮廷においても尊敬されていない存在で、我が娘のフランス王妃は、その夫を庇いもせず、支えもせず、その鈍感な寛大さを利用して散財していることに空恐ろしさを感じた。一国の王が家庭の強い支えなしに、加えて意気地なしではどのように君主制を守れるのか。マリア・テレジアは彼らの行く末を思って震撼した。 マリ-・アントワネットが王妃になって先ずしたことは、王にヴェルサイユ宮殿から少し離れた小離宮プチ・トリアノンの領地所有を所望したことである。ルイ15世が亡くなって数日後であった。フランスでは外国人が領地を所有することは禁じられていたが、勿論ルイ16世は承知したのである。 プチ・トリアノンはルイ15世に寵愛されたポンパドゥ-ル夫人が、1763年に建築家ガブリエルに建てさせたもので、エレガントなギリシャ風の建物である。しかしポンパドゥ-ル夫人はその一年後に亡くなったのでこの完成は見れなかった。専ら、ルイ15世と最後の側室デュバリ-夫人の愛の隠れ家として使われた。 マリ-・アントワネットはこの小離宮を見た時、ヴェルサイユの儀礼づくめの日常から解放されて気ままな自由な生活に実に適した場所だと思った。ルイ16世は宮廷人たちの批判の眼をよそに、1774年8月15日聖マリアの日に、531個のダイヤモンドが飾るプチ・トリアノンの鍵を王妃に手渡した。 1階の玄関にある大階段のモノグラムはルイ15世の“LL”に代わって王妃の“MA”が取り付けられた。寝室は指物師ジョルジュ・ジャコブに花と植物のモチ-フを施した魅力的な家具を作らせ、寝室の横にある閨房には特別仕掛けの動く鏡が据えられ窓が隠れるようにした。 プチ・トリアノンの周りにはルイ15世が丹精したヨ-ロッパ一の植物農園があった。温室には4000の希少の植物が育てられていたが、マリ-・アントワネットはいとも簡単にイギリス庭園に変えてしまう。 宮廷はこれらの莫大な費用と王妃が好きな時に完全に孤立できるこの空間に憤慨した。 マリ-・アントワネットはプチ・トリアノンは、王も含めた全ての人の出入りは招待が必要とし、招待リストまで作った。このような規則まで作って気に入った取り巻き達と放埓に遊ぶ王妃の態度を宮廷人たちは真の侮辱と受け取った。この頃、初めて王妃を非難する“中傷文”が表れた。しかしマリ-・アントワネットには防御しようという考えがなかった。 1778年、フェルゼンは再びフランスにやってきた。フェルゼンの父はスウェ-デンで最も裕福で強力な貴族であった。4年前にヨ-ロッパ遊学中、18歳でパリの社交界にデヴュ-し、容姿端麗で背も高く雄弁な彼は、忽ち上流階級の婦人たちの心を掴んで人気を博した。 ヴェルサイユで初めて正式にフランス国王と王妃に会見したフェルゼンに、「まあ、以前にお会いしましたわね。」とマリ-・アントワネットが声をかけた。彼女はフェルゼンを覚えていたのである。4年前のオペラ座の夜会以来であった。そして彼はプチ・トリアノンの王妃の招待客リストに入り、その後しばしばプチ・トリアノンを訪れることになっていくのである。マリ-・アントワネットの彼への好意の示し方は誰が見ても特別なものになっていった。時には、お忍びで夜プチ・トリアノンにやってきて朝方に帰っていくフェルゼンの姿があった。 この恋愛は非常に複雑であった。フェルゼンはマリ-・アントワネットにとって、初めての心ときめく存在であったが、王妃である矜持は保たなければならない。フェルゼンはフランスの軍隊の重要ポストを得て、アメリカの独立戦争支援などのいくつかの戦役に出かけたり、いつも王妃の傍にはいなかったが、二人は誰にも知られないように秘密の愛の手紙を交換するようになっていく。フェルゼンの手紙の相手はジョゼフィ-ヌという名前になっていた。(次のエピソ-ドに続く) 筆:平井愛子 フランス政府公認ガイド ソルボンヌ・パリ第4大学美術史-考古学学部修士、DEA(博士課程前期)、エコ-ル・ド・ル-ヴル博物館学

マリ-・アントワネットの結婚生活(その2)

はしゃぎたい年頃であった。エチケットだらけの窮屈なヴェルサイユの生活。昼間の狩りで疲れて熟睡している夫をベッドに置いて、マリ-・アントワネットはその取り巻き達とヴェルサイユを夜中に抜け出して、パリのオペラ座の夜会へ繰り出すようになる。夜会は魅惑的であった。仮面を付けて踊って、たわいのないおしゃべりを交わす。誘惑の坩堝に身を置くことは実に刺激的であった。朝の7時までにヴェルサイユに戻り、10時のミサには何事もなかったように参加し、午後は夜のオペラ座に出かける準備で頭が一杯であった。 そしてこのオペラ座でスウェ-デン人のある学生に出会う。スウェーデン名門貴族のアクセル・フォン・フェルゼンであった。マリ-・アントワネットは自分の名前は明かさなかったが、フェルゼンはその日の日記に、マダム・ラ・ドフィンヌ(王太子妃)に会った、と記している。誰よりも優雅で、ひときわオ-ラを発しているマリ-・アントワネットとその取り巻きの彼女への接し方を見れば、フェルゼンに分かるのは当然であった。そして彼の心にマリ-・アントワネットの印象が深く刻まれた出会いであった。フェルゼンはこの後間もなく本国へ帰り、二人の本格的出会いはフェルゼンの次の来仏を待たなければならない。 王太子妃は、ゲ-ムにも興じて挙句は賭博まで手を出し、多額の借金を作り出すという有様であった。更に当時パリで貴族たちに評判のロ-ズ・ベルタンという高級ドレス・デザイナ-をシャルトル夫人に紹介されてからは、ロ-ズ・ベルタンがマリ-・アントワネットに見せるデザインや美しい生地は彼女の美的センスを刺激し、この王太子妃はそれらを際限なく購入する。ロ-ズ・ベルタンはマリ-・アントワネットという最高のモデルを得て、次から次へとデザインを描く。かくしてマリ-・アントワネットとロ-ズ・ベルタンが創り出すモ-ドはフランスの宮廷だけではなくヨ-ロッパ中の宮廷へと流行が広がっていった。 ルイ・オ-ギュストはこうした妻の散財には負い目があるのか何も言えないのであった。そして若い二人の閨房の不手際は、ヴェルサイユの貴族だけでなく下働きの下男下女たちまでにも知られ、パリでも面白可笑しく卑猥な噂や歌が飛び交った。諸外国にも聞こえ、各国の王族たちはフランスの王太子夫妻を冷笑しながら揶揄した。辱めの極地であった。 マリア・テレジアは不安と心配で手紙を頻繁にパリに送り、遂にルイ15世が王太子を詰問し、事実が判明した。王の命令ですぐさま宮廷医ラソンヌに診察を受けることになった。そしてやっと不能症の原因は精神的なものではなく、器官上の欠陥ということがあきらかになった。しかし王太子の優柔不断の性格は手術に中々踏み切れない。 1774年5月10日、ルイ15世が亡くなった。天然痘であった。王の死と同時に王太子はルイ16世になり、マリ-・アントワネットは王妃となったが、伝染を恐れて祖父の死に際には会わせてもらえなかった。ルイ16世20歳,マリ-・アントワネットは19歳であった。彼女は王妃になると、自分の言動が法律になる権力の座に君臨したということを直ぐに自覚したが、それに伴う責任については考えが及ばなかった。 1777年を迎え、二人の厭わしい滑稽な閨房の有様はなお変わらなかった。マリア・テレジアは激怒し、4月長男の皇帝ヨ-ゼフ2世をパリへ送った。彼は情けない義弟のルイ16世に手術をするよう励まし迫った。手術は成功した。だが王としての権威はすでに深く傷つけられていた。ルイ14世の権威には比べるべくもないルイ16世のそれであった。そしてこの一見非常に個人的親密な出来事はフランスの歴史に、いや世界史の変化に深いところで繋がり、影響を与えていく一因となったと思える。それは彼が王だったからか?ごく普通の庶民の夫婦の親密な問題だったら何も影響はなかったか?いや人間であれば自覚の有無に関わらずその生きざまは、この一瞬にも世界史の成り立ちに参画していると言えるのではないだろうか。 1778年、マリ-・アントワネットは、長女のマリ-・テレ-ズ・シャルロットを出産する。やっと名実ともに王妃となった。結婚から既に8年が立っていた。 出産とともに、マリ-・アントワネットは賭博も止め、パリのオペラ座通いもきっぱり止めた。母となり、王妃の役目を果たしつつある満足感が彼女の心理に反映していると言えよう。マリ-・アントワネットは子供たちにとっては宮廷の仕来たりを変えて自ら一緒に過ごす良き母に変遷していくが、浪費癖だけは治らなかった。そして宮廷の仕来たりを無視することは、貴族たちへの侮辱となり反感を買い、それが怨念に変わって行くことは、マリ-・アントワネットには思いもよらない事であった。(次のエピソ-ドに続く) 筆 平井愛子 フランス政府公認ガイドコンフェランシエ、ソルボンヌ・パリ第4大学美術史・考古学部修士、同DEA(博士課程前期)、エコ-ル・ド・ルーヴル博物館学

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