アルルのゴッホ

冬の晴れた日、ゴッホ(1853ズンデル生-1890オ―ヴェ-ル・シュル・オワ-ズ没)の足跡を辿ろうと思い立ち南仏アルルを訪れた。アルルの駅は以外に小さかった。駅前のラマルチ-ヌ広場を横切って古代の城壁に繋がるカヴァルリ門を潜ると旧市街に入る。そのすぐ右側にゴッホが住んだ“黄色い家”があった一角がある。その家はもうすでに無いが、黄色の家の背景の建物はいまだにあってそれが偲ばれる。

前方にロ-マ時代遺跡円形闘技場が目に入る。円形闘技場から道なりに右へ曲がっていくと、今度は古代劇場の遺跡がある。更に往時の歴史が刻まれているかのような小路を進むとレプブリック広場が開け、中央にはロ-マ時代のオベリスクが聳えている。広場には17世紀にジュ-ル・アドワン・マンサ-ルヴェルサイユの鏡の間を建設)によって建設された市役所と、南フランスのロマネスク美術の完璧な例ともいわれる聖トロフィ-ム教会のファッサ-ドの見事な彫刻群が歴史を物語っている。市役所の裏の道を右に曲がるとフォ-ラム広場が開け、ゴッホの描いた“夜のカフェ”があった。アルルは小さな町で迷うことを恐れずに散策ができ、どんな通りにも古い石を使った門や壁が見られ、古代と共存している不思議な魅力に満ちている町である。

アルルは紀元前6世紀頃、ギリシャ人によって創設され、その後ケルト人が占領し、更に紀元前123年にロ-マ人によって占領された。運河も建設されてマルセイユを凌ぐ重要都市として発展し、アルルに今も残るロ-マ遺跡ロマネスク様式の建築群が1981年にユネスコ世界遺産に登録されている。

ゴッホがアルルにやってきたのは1888年2月21日であった。2年間のパリ生活(1886年3月1日-1888年2月20日)で200枚の絵を描き、印象派の画法や点描なども取り入れて独自のスタイルを生み出そうと努力を重ねたゴッホだった。パリでは驚くほどのア-チスト達と交流したゴッホだったが、その殆どとあまり良い人間関係は築けなかった。弟のテオは当時母親に“兄さんは誰とも喧嘩するので手に負えない”と書き送っている。やがて都会の喧騒と人間関係が上手くいかないことなどでパリを離れ、ゴッホは南仏のアルルに旅立つ。

ゴッホは日本の浮世絵に大いに魅せられ、モンマルトルルピック通り54番地のアパルトマンには日本の版画が壁に鋲で貼ってあった。彼は自分の想像した“日本の光り”を求めてアルルに出発したのだ。アルルに着いて、ゴッホはテオに“僕は日本にきたような気がする”と手紙に書いている。他の手紙には“南仏に滞在したいわけは、次の通りである。日本の絵が大好きで、その影響を受け、それはすべての印象派画家達にも共通なのに、日本へ行こうとはしない-つまり日本に似ている南仏に。結論として、新しい芸術の将来は南仏にあるようだ。”とまで言っている。ゴッホ特有の思い込みがないとは言えないが、日本の絵の真髄を掴もうとの懸命な気持ちが伝わってくるようだ。そして彼はここに画家たちの共同体を創ろうと夢想した。その呼びかけに実際アルルにやってきたのはゴ-ギャンだけであった。

ゴ-ギャンはアルルに来ることは気が進まなかったが、重なる借金をゴッホの弟テオが肩代わりしてくれた上に経済援助をしてくれるという約束で来たもので、ゴッホと画家の共同体を創ろうなどとは露ほども思っていなかった。更にこの2人の個性の強さと気性はお互いに相容れるものではなかった。この人間関係の緊張はゴッホの精神を混乱に陥らせ、遂に彼は自分の片耳を切り落とし、なじみの売春婦に届けるという悲劇的奇行を生むことになってしまった。ゴッホはアルルの病院に入院し奇跡的に回復するが、精神の発作は止まずアルルの住民達の彼に対する危険視にアルルを離れざるを得ず、自らサン・レミ-の精神病院に入院した。こんな激しい夢想と絶望と激高の人生の荒波に翻弄されながら、ゴッホは、“ひまわり”、“跳ね橋”、“ロ-ヌ河の夜”、“夜のカフェ”などの代表作を次々と生み出している。

ゴッホはアルルには14か月半滞在したが、この間200枚の作品を描いた。2日に1枚のピッチで描いている。驚くべき情熱である。まるで制御不能の激情が炎のように燃え盛って、“愛”も“理想”も“怒り”も“不安と絶望”も、あらゆるものが過剰の人生であった。しかし、ゴッホはこのアルルで確実にゴッホなるものを生み出したのだ。ゴッホが愛したアルルは小さい町だが歴史と芸術の忘れがたい町である。

執筆:平井愛子 フランス公認ガイド・コンフェランシエ、ソルボンヌ・パリ第4大学美術史・考古学部修士、同DEA、エコ-ル・ド・ルーヴル博物館学

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