オディロン・ルドンの原風景 ペイルルバド荘園(ボルド-郊外)

突然の新コロナウィルスの発生と蔓延で、フランスも3月17日より外出自粛になり、近所のス-パ-に行くのにも、散歩するのにも証明書を携帯せざるを得ない状況になった。そんなある日、或る日刊紙のインタ-ネット版で、オディロン・ルドン(1840年ボルド-生-1916年パリ没)の記事を偶然目にした。紹介されていたのは、鮮やかなブル-の花瓶に生けられた色とりどりの花々が幻想的に描かれたパステル画であった。コロナウィルスで突然瀕死状態に陥る方々のニュ-スや、治療法も見つからない混乱の最中に、このルドンのパステル画はウィルスを吹き払う爽やかな風と新鮮な空気を送ってくれているかのように感じて、心から感動した。そして長年忘れていた絵心が突然心に芽生えて、ス-パ-の店先に置いてあったチュ-リップの花を買ってきてスケッチし、探し出した色鉛筆で色彩を施して、それでも嬉しい気持ちになったのであった。
この有名な“グランブ-ケ”は、ルドンが60才になろうとする頃に、ブルゴ-ニュに城を持つ、ルドンの作品の収集家であり友人でもあったドムシ-男爵の注文によって描かれたものである。この城の食堂を飾る装飾画連作の中央パネルがグランブ-ケであった。1901年に完成している。2,5m x 1,6mの大きさである。これらの装飾画は1980年、ドムシ-家から国家に相続税物納として譲渡され、オルセ-美術館に現在は展示されているが、このグランブ-ケは譲渡作品の中には入っておらず、近年三菱一号館美術館の所蔵となり、何と日本にあるのだ。

ルドンは1840年、ボルド-で生まれるが生来の虚弱体質であったためにボルド-郊外のペイルルバド荘園へ乳母とともに送られ、11歳までここで育つ。この荘園は今は名高いワインの産地メドックの真っ只中にあるが、当時は葡萄園と未耕作地からなる私有地で単調な田舎の荒地であった。しかし繊細な少年ルドンにとっては格別な意味を持った環境になって行く。「子供の時、私はくらがりが好きでした。厚いカ-テンの下や、家の暗い片隅や、色々な遊びをする部屋などに身を潜ませると不思議な深い喜びを味わったことを覚えています。」と“芸術家の打ち明け話”に述べているが、ルドンの“黒”の世界はここで育まれたのだ。

その後ルドンはボルド-で学校生活、22歳を過ぎてパリ国立美術学校には入れなかったが、アカデミズムの重鎮ジャン=レオン・ジェロ-ムの教室に通いだす。しかし新古典主義の技法には耐えられず、帰郷した。最悪の精神状態を取り直したのは、このペイルルバドであった。「私の生活は、都会と田舎の間で交互に行われた。田舎の生活は、いつも休息を与え、体力を回復させるとともに、新しい視野を与えた。」。そしてパリの生活は知的な跳板を与え、彼自身も「芸術家は絶えずその上で自己を鍛えなければならない」と努力を続け、木炭画の神秘的な世界をペイルルバドで創作していった。
ペイルルバド

ルドンは1886年、長男を亡くし落胆するが、3年後の1889年次男アリが生まれ、ルドンに大きな希望を与えた。50歳を目前にしてである。この頃からルドンは徐々に色彩を使いだす。「私は昔のように木炭画を描こうと思いましたが、だめでした。それは木炭と決裂したということです。実を言えば、私達が生きながらえるのは、ただただ新しい素材によってなのです。それ以来私は色彩と結婚しました。」(1902年7月21日付けのモ-リスファ-ブル宛の手紙)。含蓄のある言葉である。色彩画家に変身を遂げるルドンは象徴派を含む新しい傾向の芸術を追求していた若い画家達の先導者ともなり、モ-リス・ドニが描いた「セザンヌ礼賛」(オルセ-美術館蔵)は、中央にセザンヌの絵があるが、ナビ派の画家達に迎えられているのは向かって左側に描かれたルドンである。

ルドンに常にインスピレ-ションを与えてきたペイルルバドは、兄が父ベルトランの没後管理をしていたが経営に行き詰まり、1898年に残念ながら売却されてしまった。ルドンは“黒”のインスピレ-ションの場を失った。しかし、この後、鮮やかな色彩の夢幻的ともいえる名作品を彼は創造していくのだ。「我々はある場所に見えない糸でつながっている。創造する人間にとって、それは内臓のようなものだ。」の言葉通り、ペイルルバドはルドン自身の中に昇華されて彼は色彩画家と生まれ変わったのだ。
このペイルルバドは所有者が何人か入れ替わり、現在はロスチャイルド家が所有し、メドックでも有名なワイナリ-になっている。
ドメイン・ロスチャイルド

筆 平井愛子 フランス政府公認ガイド・コンフェランシエ、ソルボンヌ・パリ第4大学美術史・考古学部修士、同DEA、エコ-ル・ド・ルーヴル博物館学

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