文豪シャト-ブリアンの館 ラ・ヴァレ・オ・ル―(パリ郊外)

フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン(1768年サンマロ生-1848年パリ没)はフランスのロマン主義の先駆者であり、フランスを代表する大文豪である。ヴィクトル・ユ-ゴ-(1802-1885)はシャト-ブリアンを師と仰いで、14才の日記に“ぼくはシャト-ブリアンのようになりたい。そうでなければ人生は無だ。”と記している。

その彼の館がパリ郊外のソ-市の近く、ラ・ヴァレー・オ・ルーにある。

RER・B線のRobinson行きに乗って終点で降り、標識に従って閑静な住宅街の小道を辿って行くと、ラ・ヴァレー・オ・ルーの鬱蒼とした林に出る。この林の中の小道を登ったところに、シャト-ブリアンの館がある。広いイギリス式庭園をもったネオクラッシクと中世スタイルの曖昧う18世紀の館である。

ここに、シャト-ブリアンは1807年から1818年まで、妻のセレストと暮した。彼がナポレオンの批判を書き、パリ追放を余儀なくされ、この領地を購入したのである。40才の時であった。

シャト-ブリアンはこのラ・ヴァレー・オ・ルーを生涯の地とするつもりでいたので、館の改装工事、庭の整備、植樹などに借金までして力を注ぎ込んだ。

館の南側ファッサ-ドにある白大理石の2体のキャリアチ-ド(女体像)と黒大理石の2本の柱、三角形ペディメントが施されたギリシャ風の玄関はシャト-ブリアン自身の設計である。

ジャン=ジャック・ルソ-の思想に影響を受け、自然には人一倍関心の高かった彼は植物学者ほどの知識をもって、更に自ら庭師となって、多くの植樹を行った。旅先から持ち帰ったレバノン杉、エルサレム松、アメリカキササギ、グラナダの月桂樹、ギリシャのプラタナスなどが今も聳え立っている。ナポレオンの后、ジョゼフィ-ヌから贈られた深紅のマニョリア(モクレン科)も見ることができる。そしてこの広大な庭の一角に彼が著作に勤しんだ書斎でもあったヴァレダの塔も残っている。

シャト-ブリアンは、このラ・ヴァレー・オ・ルーの家で「殉教者」、旅行記「パリからエルサレムへ」、「モ-ゼ」、「亜パンラセ-ジュ族最後の人の物語」などの代表作を上梓する。又、後に出版された「墓の彼方の回想」、「歴史研究」もここで書き進められた。

庭の一角にあるヴァレダの塔と書斎

彼の有名な「アタラ」、「キリスト教精髄」はフランス革命の激烈さに亡命していたロンドンから1800年に帰還した後、出版され、特に後者はナポレオンのキリスト教復活政策に大きく貢献した。そしてこの成功はシャト-ブリアンにロ-マ公使館・書記官のポストを齎しロ-マに赴任するも、ローマ公使と仲たがいをして帰国。その後彼は、ナポレオンによるブルボン家アンギャン公不当逮捕と処刑に憤慨し、反ナポレオンとなる。ナポレオンはこのようなシャト-ブリアンに憤慨しつつも、その文学的才能は高く評価していたといわれる。

1814年、ナポレオンが退位すると、シャト-ブリアンの政治生活が復活する。王政復古を支持するが、ナポレオンの百日天下には、ルイ18世と共にベルギ-に亡命し、臨時内務大臣に任命されるが、ルイ18世の政策を批判し嫌われ、王の帰還後に用いられることはなかった。

このような経緯で、経済的困難に陥ったシャト-ブリアンは丹精込めたラ・ヴァレー・オ・ルーを手放す以外になかった。彼が生涯を通して愛したレカミエ夫人の紹介で、彼女の親しい友人マチュ-・ド・モンモランシーが購入した。

レカミエ夫人は、モンモランシ-の招きで1818年から1826年まで特に夏をここで過ごした。しかし、モンモランシ-はシャトーブリアンがここを訪れる事を拒んだので、二人はこの館で会うことはなかった。彼女はここで、シャト-ブリアンの「我が人生の回想」の原稿を清書している。

レカミエ夫人の肖像画(ジャックルイ・ダヴィッド画)はルーヴル美術館蔵

尚、ジャック=ルイ・ダヴィッドのレカミエ夫人の肖像画に描かれている長椅子がラ・ヴァレー・オ・ルーの館に展示されているが、レカミエ夫人滞在の象徴として、この館がシャト-ブリアン記念館として会館する際に購入されたものである(1987年)。

ルイ18世時代のヴィレ-ル内閣のもとでは、プロイセン公使、イギリス大使、外務大臣を歴任して活躍。しかしヴィレ-ルと仲が悪くなり、1824年外相の地位を追われた。

因みに、イギリス大使をしていた時に、牛のヒレ肉の中央部分を好んで、料理人にステ-キを度々作らせたので、シャト-ブリアン・ステ-キの名が生まれた。

ルイ18世の死で王位に就いたシャルル10世は、専制政治を敷いたために1830年7月革命が起こり、退位。オルレアン家のルイ=フィリップが王位に就くが、シャト-ブリアンは正統王朝派として、オルレアン家に仕えるのを良しとせず上院議員の地位も捨てて、執筆活動に専念していく事になる。

シャト-ブリアンの波乱に満ちた人生の変遷は、絶え間なく変化した時代のせいだけではなく、その自尊心の非常なる強さと気難しさにあったようだ。孤高の人であった。

ヴィクトル・ユ-ゴ-は、 “シャト-ブリアン氏は才能によるよりも、その性格によって年を取っている。文句屋で気難しい。”と1836年の日記に記している。

シャト-ブリアン(アンヌルイ・ジロデ画)サン・マロ市立歴史美術館蔵

シャト-ブリアンは生涯を通じて、多くの有名女性達と浮名を流しているが、妻のセレストとは最後まであまりうまくいってなかったようである。

シャトーブリアンとレカミエ夫人の出会いは1817年スタ-ル夫人の家での晩餐会であった。お互いが一目ぼれであった。レカミエ夫人はヨーロッパきっての美人で才媛で、ル-ヴルにあるジャック=ルイ・ダヴィドの有名な肖像画はナポレオンが彼女を口説くためにダヴィドに描かせたものである。レカミエ夫人の拒否によって、この絵は未完成に終わった。

レカミエ夫人は、その後財産を失って修道院アベイ・オ・ボアにアパルトマン(パリ6区)を借りることになったが、シャト-ブリアンは近くのリュ・ド・バックに転居し、毎日レカミエ夫人のもとへ通いその晩年を過ごした。妻のセレストはパリの自宅で1847年に亡くなる。

一方、レカミエ夫人は老年期に入っても才媛の魅力は衰えず、この修道院の一角に随分の文化人たちが集ったのである。シャト-ブリアンは勿論それらの文化人の頂点にいたのである。

1848年、シャト-ブリアンはレカミエ夫人の腕に抱かれて波乱の人生の幕を閉じた。80才であった。

ラ・ヴァレー・オ・ルーの地は、シャト-ブリアンの波乱の人生にとって、最も平安な人生の一時を過ごしたところなのである。

行き方 :RER・B線Robinson下車、徒歩20分、バスは巡回が少ないので徒歩が確実。

開館時間:(火-土)10h-12h、14h-18h(日)11h-18h

筆 平井愛子 フランス政府公認ガイドコンフェランシエ、ソルボンヌ・パリ第4大学美術史・考古学部修士、同DEA、エコ-ル・ド・ルーヴル博物館学

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