ヴォ・ル・ヴィコント城とニコラ・フ-ケの悲劇 (下)

1661年8月17日は運命の日であった。ルイ14世が2回目にヴォ・ル・ヴィコントを訪れた日のことである。

若き日のルイ14世

フ-ケは、王を迎える準備に全神経を傾け、城の中は豪華を極めた装飾がここそこに施された。

ヴォーは、その夜以上に美しかったことはなかった”とジャン・ド・ラ・フォンテ-ヌは書き残している。

王と皇太后を始め、王廷の招待客たちは17日の夕方6時頃ヴォ-の城の前に降り立った。彼らはまず見上げる美しい建物に感嘆した。ファンファ-レが鳴り響き、ニコラ・フ-ケは玄関前の階段の最上段に立って、満面の笑顔で王の一行を迎えたが、この時の光景は、どちらが王か見紛うほどであったという。

玄関ホ-ルに入ると、目前にル・ノートルの庭園が美しく広がっている。夏の暑さに、まず噴水が二つの壁をつくるがごとく噴出る中をプロムナ-ドは開始された。50の泉200の噴水大きな運河小さな滝があちこちに流れ落ちている。

ルイ14世は、これだけの水が地から湧き出て踊っているのを見たことがなかった。城の広い敷地の周りは広大な麦畑に囲まれているが、その真ん中にどうやってこれだけの水を出す事ができるのか。この配管設備はイギリスからやって来たばかりで、国に属するものであるが、フ-ケはちゃっかりこのヴォーで使用したのだった。

庭園から見たヴォ・ル・ヴィコント城

藪のここそこには、音楽師達がバイオリンやフル-トを奏でていた。城内のサロンを見て行くと、壁に掛かるタピスリ-には金が織り込んであり、ギャラリ-にはル・ブランの手によるルイ14世の肖像画も飾られていた。これには王も喜び、“心からの満足である”と言葉を発した。

ルイ14世の寝室

大サロンの天井画は瑞々しい花々と女神がル・ブランの手で描かれ、その新鮮さに招待客たちは目を見張った。しかし、描かれた新しい天体の中央にフ-ケを意味する“リス”の紋章が描かれているのを王は見逃さなかった。

モリエ-ルの胸像

晩餐会には、歴史的料理人ヴァテルが采配を振るった30種類の料理が並び、500組の皿と36組の大皿は銀製、金のフォ-クとナイフ、王の側に置かれた砂糖入れも金色に輝いていた。思わずルイ14世が“素晴らしい金メッキだ”というと、フ-ケは“殿下、これはメッキではなく、金でございます”と答えたのだ。

モリエ-ルは、彼の初めてのコメディ・バレエ“困り者”(Les Fâcheux)を上演し、これはルイ14世を多いに喜ばせた。この後、花火があがり、城と運河のあたり一面に空から宝石が降ってくるようであった。花火の後は“宝くじ”まで催され、景品には宝石や馬などが配られた。

モリエ-ルのコメディ・バレエの舞台

想像するだけでも、目眩めくようなイヴェントであったに違いない。

しかし午前2時、ルイ14世は突然、帰るとサインし、一行はけたたましくヴォを去って行った。若いルイ14世にとっては、あまりにも自分には及ばない力と世界を見せ付けられた思いであったに違いない。加えて王の一行は真夜中の道中、道に迷ってしまった。ルイ14世の惨めな思いは黒い怒りと変わっていくことになった。

9月5日、王は滞在先のナントにフ-ケを呼んだ。フーケは喜んで駆けつけたが、彼は公金横領罪で逮捕されてしまう。同時にフ-ケの城も財産も凍結されて調べられた。この時以来、ニコラ・フ-ケは二度と再びこのヴォ・ル・ヴィコントを見ることはなかった。

裁判では、フ-ケの反論は明解で判事の中にはフ-ケの公金横領の起訴自体に疑問を持つ者もいて、一度は判決が国外追放になるが、これに怒ったルイ14世はフ-ケを全監獄の中で一番厳しいアルプス山中のピニュロ-ルの監獄へ閉じ込めた。

ピニュロ-ルの監獄

ニコラ・フ-ケは亡くなるまで、約20年間この牢獄を出ることはなかった。しかし、獄中で彼は身の潔白を綴った原稿を家族の手を通じてオランダで秘密裏に印刷し、この出版はニコラ・フ-ケ自身の貴重な資料となって、現在も保管されている。

1680年3月、ルイ14世は年老いて病気になっているニコラ・フ-ケの出獄を決めるが、出獄日3月23日を目前にした21日にフ-ケは急死してしまうのだ。この謎めいた急死は毒殺が定説になっている。

フ-ケの死後、所有者は変わり、更にフランス革命はこの城を破壊の運命へ追いやるかに見えたが、ナポレオンの台頭で革命も終わり、ヴォ・ル・ヴィコントは救われた。

その後この領地は次第に荒れ果てて行くが、1875年、競売で新たな所有者になった事業家のアルフレッド・ソミエのおかげで奇跡的にヴォ・ル・ヴィコントは蘇り、今もその子孫がこの城を守っている。不思議な生命力をもって復活したのだ。

現在、フランスの個人の建物としては一番大きい歴史記念物として指定されている。見事に修復された城と庭園は、フ-ケの在りし日の繁栄を伝え、17世紀のフランスの3人の芸術家たちが彼らの力を存分に発揮した珠玉の名建築である。

筆:平井愛子 フランス政府公認ガイド・コンフェランシエ ソルボンヌ・パリ第4大学美術史・考古学部修士、同DEA、エコ-ル・ド・ルーヴル博物館学

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