ヨ-ロッパの覇権を争ってハプスブルグ家とフランスのブルボン家は、何世紀にもわたる度重なる戦争に疲れ切り、遂に両家が行きついた解決策は、血縁を結んで永続的に戦争のない間柄を築こうというものであった。
ハプスブルグ家オ-ストリア女大公のマリア・テレジアは、ルイ15世の孫で将来フランスを継ぐ予定の王太子ルイ・オ-ギュストと11歳になる我が娘マリ-・アントワネットを婚約させることを試みた。しかしルイ15世はもったいぶって中々確約を与えない。その間、マリ-・アントワネットは、エレガントで愛らしい活発な少女に育って行ったが、勉強や書物を読んだりすることは殆ど興味が無いようであった。頭は良く働いたが、辛抱したり何かを最後までやり通すことには関心がなかった。

1769年6月、やっとルイ15世から自分の孫、将来のルイ16世に、若きプリンセスをいただきたいと申し込みが届いた。更に二人の挙式は翌年復活祭の頃に、と提案されていた。マリア・テレジアは大喜びで同意の返事を書いた。彼女はこれでヨ-ロッパの平和は確立されたと思った。
さて、マリ-・アントワネットの準備は?マリア・テレジアは愕然とした。13歳になったマリ-・アントワネットは、まだドイツ語もフランス語も正しく書くことができなかった。大音楽家グルックに音楽を習っていたが、ハ-プもチェンバロも大して上手くはなかった。大急ぎで我が娘を教養ある貴婦人に仕立て上げなければならない。政務の忙しさに娘の教育を人任せにしたことを心から後悔した。フランスの王妃になるのだから、ダンスとフランス語の習得は必須。そこでウィ-ンで公演していたフランスの劇団俳優をフランス語の発音の教師と歌の教師として二人雇った。するとフランスは、どこの馬の骨か分からない俳優ごときに、将来のフランス王妃の教育を任せるとは何事かと怒り、オルレアン司教推薦のヴェルモン神父をウィ-ンに派遣した。

ヴェルモン神父の早速の報告には、皇女は愛らしい顔立ち、優雅な身のこなし、性格も心根も優れて申し分ないと綴っている。しかしまた、遊び好きで注意散漫、頭は想像していた以上に良いが集中力の訓練がこれまでされてこなかったので、皇女の教育は困難に見舞われている… 結論としては、皇女を楽しませながらでないと教育は不可能であると報告している。
マリア・テレジアは不安と心配に心を募らせて、輿入れまでの2か月間、マリ-・アントワネットのベッドを我が寝室に入れて、毎晩母として未熟な娘に心構えを語って聞かせた。しかし女大公の不安と心配は膨らむ一方であった。
とうとう、出立の日がやってきた。贅を尽くした嫁入り道具が用意され、ルイ15世もこれまで見たこともない豪華な旅行用馬車を注文してウィ-ンへ贈った。フランスから花嫁を迎えにフランス王の特別大使が六頭立て馬車48台で豪華な出で立ちの護衛兵と従僕117名を伴って到着する。オ-ギュスタン教会で王太子代理人と結婚の儀式を行い、その後ヴェルヴェデ-レ宮殿での祝典につぐ祝典を終えて、1770年4月21日、マリ-・アントワネットは、132人の随行員、57台の馬車、376頭の馬からなる長大な騎馬行列とともにシェ-ンブルン宮殿を後にした。母との別れに必死に涙をこらえるマリ-・アントワネットであった。
各地で盛大に迎えられながら、18日目にドイツとフランスの国境の町ストラスブルグに到着した。ここを流れるライン川の中州に特別な建物が臨時に建てられた。ヴェルサイユとシェ-ンブルンの廷臣たちに寄って決められた花嫁の引き渡し場所なのであった。その建物にはライン川右手に2つの控えの間、左手にも2つの控えの間があり、中央には儀式用の大広間があり、どれも豪華な装飾が施された。


マリ-・アントワネットは、この大広間の手前で今まで身に着けていた全てのものを脱いで、頭から爪先までフランス製の下着、ストッキング、ドレス、靴、帽子に変えさせられた。一瞬でも衆人環視の中で素裸にさせられた14歳のプリンセスのストレスは如何なるものだったろうか。
フランス製に身を固めたマリ-・アントワネットは、広間中央に置かれたテ-ブル(国境のシンボル)の手前からオ-ストリアからの付き添い役シュタ-レムベルク伯爵に手を取られて、向かい側へテーブルを廻り、フランス側の付き添い役の手に委ねられた。着飾ったブルボン家の使節たちは恭しく挨拶をし、オ-ストリアの随員たちはゆっくり後ずさりして部屋を出て行った。
この時、マリ-・アントワネットの緊張は頂点に達し、フランス側の第一付き人となる女官ノワイユ伯爵夫人が挨拶をすると、彼女は思わずその腕の中に身を委ねるようにして、一瞬しゃくりあげて泣いた。これは思っても見なかったオ-ストリア皇女の振る舞いであった。ブルボン家の使節たちは、この美しい感情の爆発に誰もが心を揺さぶられた。

こうしてマリ-・アントワネットは、たった一人で稀なる自身の運命に立ち向かって行ったのだ。この後、ストラスブルグ大聖堂の隣りの司教館に入るが、迎えたロアン司祭がドイツ語で挨拶をし始めると、彼女は「もうドイツ語は話さないで下さい。今日からは私はフランス語だけを聞きます。」と宣言した。14歳の少女は、“覚悟”という人間の品格を示したのだった。
ウィ-ンを出て27日目の5月16日の朝、マリ-・アントワネットは、初めてヴェルサイユ宮殿の金の門をくぐった。この同じ日、宮殿のチャペルで正式の結婚式が執り行われた。


マリ-・アントワネットの人生の本舞台の幕が切って落とされた。(次のエピソ-ドに続く)
筆 平井愛子 フランス政府公認ガイドコンフェランシエ、ソルボンヌ・パリ第4大学美術史・考古学部修士、同DEA(博士課程前期)、エコ-ル・ド・ルーヴル博物館学