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マリ-・アントワネットの理想の村里

プチ・トリアノンでは、マリ-・アントワネットはヴェルサイユ宮殿の華美と仰々しさ、煩わしいエチケットと王妃の義務から逃れ、繊細で軽快でエレガントな空間をひたすら創り上げた。愛らしい彫刻、花びらが舞うような肖像画、光沢のある絹、淡く優しい色調の18世紀の至福と戯れるロココ芸術の粋に包まれていた。王妃は煩わしい仕事や、国家、夫、宮廷のすべてを忘れて、コルセットを取り去り、薄い透けるようなモスリンのドレスをまとい、何も考えずに限られた取り巻きの友人達と自分の世界に生きていた。 ジャン=ジャック・ルソ-(1712-1778)が「新エロイ-ズ」を発表したのは1761年であるが、この愛と自然を謳った小説はベストセラ-となった。彼の“自然に帰れ”という思想は社会に大いなる影響を与えた。人々はル・ノ-トルが造った自然まで形式に押し込めた緑の幾何学のようなフランス式庭園にはもう食傷気味で、ルソ-はその時代の不満を感じ取って、この小説の中で“自然公園”という言葉で人々のイマジネ-ションを揺さぶった。貴族たちはこぞってこの言葉に刺激され、自然の光景を競い合って創造し始めた。 コンデ公がシャンティの領地に村里を建設したのは1774年であった。運河が張り巡らされ、人工的な小川が流れる美しい背景の中に数件の木組みの田舎家が佇む村里であった。田舎家の中は豪華な食堂やビリヤ-ドなどが設けられていた。マリ-・アントワネットも招待客リストの重要な一人であった。マリ-・アントワネットはコンデ公が創り出した村里と田舎家にいたく感動した。彼女も“自然の庭園”を造りたいと心から思った。 マリ-・アントワネットは、プチトリアノンを囲む数平方キロメ-トルの領地に、彼女が好むあらゆる“自然”の世界を実現したいと思った。王妃の肝いりのこの計画は、画家のユべ-ル・ロべ-ルがうっとりするような下絵を描き、建築家リシャ-ル・ミックの采配で、数百人の労働者達が人工的な“自然の田園風景”を造り上げて行った。愛らしい小路、白鳥が泳ぐ人工の池、詩的な小川のせせらぎ、愛の洞窟、岩山、藁ぶき屋根の田舎家、鶏小屋、鳩小屋、厩舎、などが劇場の舞台背景のように配置された。そして本物の農民夫婦とその子供たち、乳しぼりの娘、子牛、豚、ウサギ、羊飼い、などもまるで芝居の脇役のように配置された。勿論主役はマリ-・アントワネットである。王はここではまるで端役であった。 建物は外側はいかにも貧しく荒れ果てたように見せるために、壁はハンマ-でひびを入れ、漆喰の壁は、所々剝がし落とし、屋根板は数枚取り外して、絵のように古びた風景を醸し出していた。しかし、家々の内部は美しい鏡が掛けられ暖炉があり、王妃の好きなビリヤ-ド台が運び込まれ、座り心地の良い長椅子が用意された。動物たちは王妃がさわっても汚れないように磨き込まれ、一緒に散歩するヤギにはブル-の絹のリボンが首に付けられた。搾りたてのミルクはセ-ブル焼きの磁器に入れて差し出された。 村里だけではなく、小さなオペラ劇場がルイ15世の植物温室跡に建てられ、マリ-・アントワネットとルソ-が出会う という芝居までが演じられた。 このマリ-・アントワネットのジャン=ジャック・ルソ-遊びの決算書は1791年に出されたが200万リ-ブル(30億円以上)を越えるものになった。既にフランスの国庫は破綻をきたし、当時の一般大衆の悲惨な生活から言えば、法外な支出であった。王妃の気まぐれがエスカレ-トしてもルイ16世は彼女に何も言えないのであった。 マリ-・アントワネットはヴェルサイユの儀礼と式典に苛立ち、それらを退屈と退け顧みず、プチ・トリアノンと村里建設という夢の人工の“自然”の世界に遊び戯れた。 廷臣たちはヴェルサイユに置き去りにされ、そのことは彼らの生きる意味さえ奪うようなものであった。彼らは憤懣を募らせ高慢な王妃の態度に対して、反王妃の態度を鮮明にしていった。 かつては、洗練された生活様式と宮廷儀式を学ぶためにヨ-ロッパ中から人々がいそいそとやってきたが、今やルイ14世の栄華の宮殿はプチ・トリアノンの周りの田舎の村以上の存在ではなくなってしまった。マリア・テレジアは娘に書き送る。「体面を保つのは退屈かもしれないが、それを怠ると今に大変なことが起こる」と。しかしマリ-・アントワネットにとってこれは理解の外であった。 フランス中のヘボ作家たちはマリ-・アントワネットの中傷パンフレットが一番の収入になるので、こぞって悍ましい中傷記事を書いた。そしてこの中傷パンフレットの氾濫は全フランスをあげて、マリ-・アントワネットを徹底して憎くんで行く結果になっていった。マリ-・アントワネットはこれらの恐ろしい危険の淵に立ちながら、高邁さを固持するかのように無視したのである。 忍び寄る不穏な世の動きに止めを刺したのが、ロアン司祭が起こした首飾り事件であった。(次のエピソ-ドに続く) 筆:平井愛子 フランス政府公認ガイド ソルボンヌ・パリ第4大学美術史-考古学学部修士、DEA(博士課程前期)、エコ-ル・ド・ル-ヴル博物館学

マリ-・アントワネットの愛の隠れ家-プチ・トリアノン

1774年5月10日午後3時半、ルイ15世の寝室の窓辺に置かれたろうそくの火が消えた。その瞬間、「王様は死んだ、王様バンザイ」の叫び声とともに、ルイ・オーギュストはルイ16世になり、マリ-・アントワネットは王妃になった。 マリ-・アントワネットは王妃となって、母マリア・テレジアに書き送る。“お母さまの末娘である私を、ヨ-ロッパ一美しい国の王妃にお選びになった神の摂理には驚きを禁じえません。”と手放しの喜びを伝えた。マリア・テレジアは君主として王冠の重みを十分に経験してきただけに、浮かれて喜んでいるだけの我が娘の姿が目にみえるようで、暗澹たる思いにならざるを得なかった。マリ-・アントワネットとのその後のやり取りで、フランスの新国王は結婚生活においても、宮廷においても尊敬されていない存在で、我が娘のフランス王妃は、その夫を庇いもせず、支えもせず、その鈍感な寛大さを利用して散財していることに空恐ろしさを感じた。一国の王が家庭の強い支えなしに、加えて意気地なしではどのように君主制を守れるのか。マリア・テレジアは彼らの行く末を思って震撼した。 マリ-・アントワネットが王妃になって先ずしたことは、王にヴェルサイユ宮殿から少し離れた小離宮プチ・トリアノンの領地所有を所望したことである。ルイ15世が亡くなって数日後であった。フランスでは外国人が領地を所有することは禁じられていたが、勿論ルイ16世は承知したのである。 プチ・トリアノンはルイ15世に寵愛されたポンパドゥ-ル夫人が、1763年に建築家ガブリエルに建てさせたもので、エレガントなギリシャ風の建物である。しかしポンパドゥ-ル夫人はその一年後に亡くなったのでこの完成は見れなかった。専ら、ルイ15世と最後の側室デュバリ-夫人の愛の隠れ家として使われた。 マリ-・アントワネットはこの小離宮を見た時、ヴェルサイユの儀礼づくめの日常から解放されて気ままな自由な生活に実に適した場所だと思った。ルイ16世は宮廷人たちの批判の眼をよそに、1774年8月15日聖マリアの日に、531個のダイヤモンドが飾るプチ・トリアノンの鍵を王妃に手渡した。 1階の玄関にある大階段のモノグラムはルイ15世の“LL”に代わって王妃の“MA”が取り付けられた。寝室は指物師ジョルジュ・ジャコブに花と植物のモチ-フを施した魅力的な家具を作らせ、寝室の横にある閨房には特別仕掛けの動く鏡が据えられ窓が隠れるようにした。 プチ・トリアノンの周りにはルイ15世が丹精したヨ-ロッパ一の植物農園があった。温室には4000の希少の植物が育てられていたが、マリ-・アントワネットはいとも簡単にイギリス庭園に変えてしまう。 宮廷はこれらの莫大な費用と王妃が好きな時に完全に孤立できるこの空間に憤慨した。 マリ-・アントワネットはプチ・トリアノンは、王も含めた全ての人の出入りは招待が必要とし、招待リストまで作った。このような規則まで作って気に入った取り巻き達と放埓に遊ぶ王妃の態度を宮廷人たちは真の侮辱と受け取った。この頃、初めて王妃を非難する“中傷文”が表れた。しかしマリ-・アントワネットには防御しようという考えがなかった。 1778年、フェルゼンは再びフランスにやってきた。フェルゼンの父はスウェ-デンで最も裕福で強力な貴族であった。4年前にヨ-ロッパ遊学中、18歳でパリの社交界にデヴュ-し、容姿端麗で背も高く雄弁な彼は、忽ち上流階級の婦人たちの心を掴んで人気を博した。 ヴェルサイユで初めて正式にフランス国王と王妃に会見したフェルゼンに、「まあ、以前にお会いしましたわね。」とマリ-・アントワネットが声をかけた。彼女はフェルゼンを覚えていたのである。4年前のオペラ座の夜会以来であった。そして彼はプチ・トリアノンの王妃の招待客リストに入り、その後しばしばプチ・トリアノンを訪れることになっていくのである。マリ-・アントワネットの彼への好意の示し方は誰が見ても特別なものになっていった。時には、お忍びで夜プチ・トリアノンにやってきて朝方に帰っていくフェルゼンの姿があった。 この恋愛は非常に複雑であった。フェルゼンはマリ-・アントワネットにとって、初めての心ときめく存在であったが、王妃である矜持は保たなければならない。フェルゼンはフランスの軍隊の重要ポストを得て、アメリカの独立戦争支援などのいくつかの戦役に出かけたり、いつも王妃の傍にはいなかったが、二人は誰にも知られないように秘密の愛の手紙を交換するようになっていく。フェルゼンの手紙の相手はジョゼフィ-ヌという名前になっていた。(次のエピソ-ドに続く) 筆:平井愛子 フランス政府公認ガイド ソルボンヌ・パリ第4大学美術史-考古学学部修士、DEA(博士課程前期)、エコ-ル・ド・ル-ヴル博物館学

マリ-・アントワネットの結婚生活(その2)

はしゃぎたい年頃であった。エチケットだらけの窮屈なヴェルサイユの生活。昼間の狩りで疲れて熟睡している夫をベッドに置いて、マリ-・アントワネットはその取り巻き達とヴェルサイユを夜中に抜け出して、パリのオペラ座の夜会へ繰り出すようになる。夜会は魅惑的であった。仮面を付けて踊って、たわいのないおしゃべりを交わす。誘惑の坩堝に身を置くことは実に刺激的であった。朝の7時までにヴェルサイユに戻り、10時のミサには何事もなかったように参加し、午後は夜のオペラ座に出かける準備で頭が一杯であった。 そしてこのオペラ座でスウェ-デン人のある学生に出会う。スウェーデン名門貴族のアクセル・フォン・フェルゼンであった。マリ-・アントワネットは自分の名前は明かさなかったが、フェルゼンはその日の日記に、マダム・ラ・ドフィンヌ(王太子妃)に会った、と記している。誰よりも優雅で、ひときわオ-ラを発しているマリ-・アントワネットとその取り巻きの彼女への接し方を見れば、フェルゼンに分かるのは当然であった。そして彼の心にマリ-・アントワネットの印象が深く刻まれた出会いであった。フェルゼンはこの後間もなく本国へ帰り、二人の本格的出会いはフェルゼンの次の来仏を待たなければならない。 王太子妃は、ゲ-ムにも興じて挙句は賭博まで手を出し、多額の借金を作り出すという有様であった。更に当時パリで貴族たちに評判のロ-ズ・ベルタンという高級ドレス・デザイナ-をシャルトル夫人に紹介されてからは、ロ-ズ・ベルタンがマリ-・アントワネットに見せるデザインや美しい生地は彼女の美的センスを刺激し、この王太子妃はそれらを際限なく購入する。ロ-ズ・ベルタンはマリ-・アントワネットという最高のモデルを得て、次から次へとデザインを描く。かくしてマリ-・アントワネットとロ-ズ・ベルタンが創り出すモ-ドはフランスの宮廷だけではなくヨ-ロッパ中の宮廷へと流行が広がっていった。 ルイ・オ-ギュストはこうした妻の散財には負い目があるのか何も言えないのであった。そして若い二人の閨房の不手際は、ヴェルサイユの貴族だけでなく下働きの下男下女たちまでにも知られ、パリでも面白可笑しく卑猥な噂や歌が飛び交った。諸外国にも聞こえ、各国の王族たちはフランスの王太子夫妻を冷笑しながら揶揄した。辱めの極地であった。 マリア・テレジアは不安と心配で手紙を頻繁にパリに送り、遂にルイ15世が王太子を詰問し、事実が判明した。王の命令ですぐさま宮廷医ラソンヌに診察を受けることになった。そしてやっと不能症の原因は精神的なものではなく、器官上の欠陥ということがあきらかになった。しかし王太子の優柔不断の性格は手術に中々踏み切れない。 1774年5月10日、ルイ15世が亡くなった。天然痘であった。王の死と同時に王太子はルイ16世になり、マリ-・アントワネットは王妃となったが、伝染を恐れて祖父の死に際には会わせてもらえなかった。ルイ16世20歳,マリ-・アントワネットは19歳であった。彼女は王妃になると、自分の言動が法律になる権力の座に君臨したということを直ぐに自覚したが、それに伴う責任については考えが及ばなかった。 1777年を迎え、二人の厭わしい滑稽な閨房の有様はなお変わらなかった。マリア・テレジアは激怒し、4月長男の皇帝ヨ-ゼフ2世をパリへ送った。彼は情けない義弟のルイ16世に手術をするよう励まし迫った。手術は成功した。だが王としての権威はすでに深く傷つけられていた。ルイ14世の権威には比べるべくもないルイ16世のそれであった。そしてこの一見非常に個人的親密な出来事はフランスの歴史に、いや世界史の変化に深いところで繋がり、影響を与えていく一因となったと思える。それは彼が王だったからか?ごく普通の庶民の夫婦の親密な問題だったら何も影響はなかったか?いや人間であれば自覚の有無に関わらずその生きざまは、この一瞬にも世界史の成り立ちに参画していると言えるのではないだろうか。 1778年、マリ-・アントワネットは、長女のマリ-・テレ-ズ・シャルロットを出産する。やっと名実ともに王妃となった。結婚から既に8年が立っていた。 出産とともに、マリ-・アントワネットは賭博も止め、パリのオペラ座通いもきっぱり止めた。母となり、王妃の役目を果たしつつある満足感が彼女の心理に反映していると言えよう。マリ-・アントワネットは子供たちにとっては宮廷の仕来たりを変えて自ら一緒に過ごす良き母に変遷していくが、浪費癖だけは治らなかった。そして宮廷の仕来たりを無視することは、貴族たちへの侮辱となり反感を買い、それが怨念に変わって行くことは、マリ-・アントワネットには思いもよらない事であった。(次のエピソ-ドに続く) 筆 平井愛子 フランス政府公認ガイドコンフェランシエ、ソルボンヌ・パリ第4大学美術史・考古学部修士、同DEA(博士課程前期)、エコ-ル・ド・ルーヴル博物館学

マリ-・アントワネットの結婚生活(その1)

マリ-・アントワネットが初めて未来の夫、ルイ・オ-ギュスト王太子に会ったのは、コンピエ-ニュの森であった。花嫁の一行が近づくと双方の随員がファンファ-レで伝え合い、待っていたルイ15世は孫の花嫁を迎えるべく馬車を下りた。マリ-・アントワネットもそれより素早く馬車を折りて王に歩み寄り、優雅に膝を折って王の手に接吻をし、“パパ”と呼んで挨拶をした。ルイ15世は、金髪の愛らしい優雅な姫に、心から満足した。優しく彼女を抱き起こし、彼女の頬に接吻した後、傍で困惑して固まっている王太子を紹介した。彼はぎこちなく花嫁の頬に接吻した。その夜はコンピエ-ニュの城で別々の寝室に入ったが、王太子は日記に只「王太子妃と会見」とだけ記した。 コンピエ-ニュから約100キロ離れたヴェルサイユには2日後の5月16日の朝に到着した。マリ-・アントワネットは約2時間かけて支度をし、宮殿のルイ14世礼拝堂での結婚式へ、王太子に手を取られて臨んだ。これにはごく内輪の限られた王族、貴族が最高の贅沢な衣装を身に着けて参加した。 ランスの司教が13枚の金貨と結婚指輪に祝福を与え、次に王太子が花嫁の薬指にはめようとすると上手く入らず顔を真っ赤にして押し込み、金貨を渡して、そうして二人はぎこちなく頬に接吻しあった。二人は跪いて祝福を受け、オルガンの響きと共にミサが始まった。若い二人の頭上には天蓋がかざされた。結婚契約書には王が先ずサインし、次々に親族が序列通りにサインをしていった。王太子のサインの後、王太子妃は、マリ-・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌと書き、その時羽ペンのインクがポタリと落ちてしまい大きな染みをつくった。これは凶兆と囁かれた。 セレモニ-はごく限られた参加者であったが、ヴェルサイユの庭園はすでにパリから押し掛けていた無数の民衆で賑わっていた。呼び物は未だかつてないという触れ込みの花火であったが、夕方俄かに空が搔き曇り稲妻が光る大嵐となってしまった。人々はびしょ濡れになりながら這う這うの体で帰っていった。 しかし宮殿では新しく建てられた王室オペラ劇場で結婚披露晩餐会が始まっていた。入場券を手にした6000人の名門貴族は、勿論食卓にはつけず、王と花婿花嫁をはじめ22人が食事するのを見つめる以外になかったのだが、それでも息をつめて暫くなかった歴史的光景を見守った。 数千の蝋燭に照らされたオペラ劇場の装飾は壮大で豪華絢爛であった。80人のオ-ケストラの奏でるメロディが心地よく会場を満たしていた。 やがて王族は近衛兵の礼砲に合わせて恭しく挨拶する貴族たちの間を退場して行った。 公式の祝典はこれで終わり、花婿花嫁は王と宮廷人に伴われて寝室へ向かった。ベッドの前には宮廷人たちが興味津々と見守る中、初夜まで儀礼で厳格に定められた規則に従って進んでいった。マリ-・アントワネットにとってはショックに近かった。ルイ15世が王太子にナイトウエアを手渡し、王太子妃にはシャルトル公爵夫人がそれを渡した。更にランス司教が二人のベッドに祝福を授け聖水を振りかけた。そして漸く人々は二人を残して寝室から出て行った。 天蓋付きのベッドのカ-テンが下り、やっと二人きりになった。がその夜は何も起こらなかった。王太子は翌朝、日記に“Rien”(何もなし)と記した。それがずっと続いた。皆は“内気”、“経験不足”、“ナチュ-ル・タルディフ”(小児性発達障害)などと考えた。16歳の少年がこんな魅力的な王太子妃を横に何もしない事に首をかしげた。しかし実際は不幸にも王太子には痛ましい機能障害があったのだ。 心配したマリア・テレジアは豊富な経験から、相手をせかして苦しめないよう、この事を重大視しないよう娘を励ました。母として“度の過ぎない優しい愛撫”についてまで言及している。しかしこれが何年も続くとなると皆が異常な状態であると気づいてくる。 ルイ・オ-ギュストは明らかに優雅で可愛らしい妻に魅かれて行った。だから夜の訪問は欠かさない。しかし“Rien”なのであった。虚しい試みを重ねていった。これは二人の心理に決定的な打撃を与えて行った。彼はただでさえ自信がないのに、毎晩自分の不甲斐無さを確認することは苦しみ以外の何物でもなかった。マリ-・アントワネットは初めは一体何が起きているのか分からなかったが、時が立つうちに肉体的にも精神的にもフランストレ-ションを内に深く籠らせて行った。(続く) 筆 平井愛子 フランス政府公認ガイドコンフェランシエ、ソルボンヌ・パリ第4大学美術史・考古学部修士、同DEA(博士課程前期)、エコ-ル・ド・ルーヴル博物館学 

マリ-・アントワネットのお輿入れ:ウィ-ンからヴェルサイユ宮殿へ

ヨ-ロッパの覇権を争ってハプスブルグ家とフランスのブルボン家は、何世紀にもわたる度重なる戦争に疲れ切り、遂に両家が行きついた解決策は、血縁を結んで永続的に戦争のない間柄を築こうというものであった。 ハプスブルグ家オ-ストリア女大公のマリア・テレジアは、ルイ15世の孫で将来フランスを継ぐ予定の王太子ルイ・オ-ギュストと11歳になる我が娘マリ-・アントワネットを婚約させることを試みた。しかしルイ15世はもったいぶって中々確約を与えない。その間、マリ-・アントワネットは、エレガントで愛らしい活発な少女に育って行ったが、勉強や書物を読んだりすることは殆ど興味が無いようであった。頭は良く働いたが、辛抱したり何かを最後までやり通すことには関心がなかった。 1769年6月、やっとルイ15世から自分の孫、将来のルイ16世に、若きプリンセスをいただきたいと申し込みが届いた。更に二人の挙式は翌年復活祭の頃に、と提案されていた。マリア・テレジアは大喜びで同意の返事を書いた。彼女はこれでヨ-ロッパの平和は確立されたと思った。 さて、マリ-・アントワネットの準備は?マリア・テレジアは愕然とした。13歳になったマリ-・アントワネットは、まだドイツ語もフランス語も正しく書くことができなかった。大音楽家グルックに音楽を習っていたが、ハ-プもチェンバロも大して上手くはなかった。大急ぎで我が娘を教養ある貴婦人に仕立て上げなければならない。政務の忙しさに娘の教育を人任せにしたことを心から後悔した。フランスの王妃になるのだから、ダンスとフランス語の習得は必須。そこでウィ-ンで公演していたフランスの劇団俳優をフランス語の発音の教師と歌の教師として二人雇った。するとフランスは、どこの馬の骨か分からない俳優ごときに、将来のフランス王妃の教育を任せるとは何事かと怒り、オルレアン司教推薦のヴェルモン神父をウィ-ンに派遣した。 ヴェルモン神父の早速の報告には、皇女は愛らしい顔立ち、優雅な身のこなし、性格も心根も優れて申し分ないと綴っている。しかしまた、遊び好きで注意散漫、頭は想像していた以上に良いが集中力の訓練がこれまでされてこなかったので、皇女の教育は困難に見舞われている… 結論としては、皇女を楽しませながらでないと教育は不可能であると報告している。 マリア・テレジアは不安と心配に心を募らせて、輿入れまでの2か月間、マリ-・アントワネットのベッドを我が寝室に入れて、毎晩母として未熟な娘に心構えを語って聞かせた。しかし女大公の不安と心配は膨らむ一方であった。 とうとう、出立の日がやってきた。贅を尽くした嫁入り道具が用意され、ルイ15世もこれまで見たこともない豪華な旅行用馬車を注文してウィ-ンへ贈った。フランスから花嫁を迎えにフランス王の特別大使が六頭立て馬車48台で豪華な出で立ちの護衛兵と従僕117名を伴って到着する。オ-ギュスタン教会で王太子代理人と結婚の儀式を行い、その後ヴェルヴェデ-レ宮殿での祝典につぐ祝典を終えて、1770年4月21日、マリ-・アントワネットは、132人の随行員、57台の馬車、376頭の馬からなる長大な騎馬行列とともにシェ-ンブルン宮殿を後にした。母との別れに必死に涙をこらえるマリ-・アントワネットであった。 各地で盛大に迎えられながら、18日目にドイツとフランスの国境の町ストラスブルグに到着した。ここを流れるライン川の中州に特別な建物が臨時に建てられた。ヴェルサイユとシェ-ンブルンの廷臣たちに寄って決められた花嫁の引き渡し場所なのであった。その建物にはライン川右手に2つの控えの間、左手にも2つの控えの間があり、中央には儀式用の大広間があり、どれも豪華な装飾が施された。 マリ-・アントワネットは、この大広間の手前で今まで身に着けていた全てのものを脱いで、頭から爪先までフランス製の下着、ストッキング、ドレス、靴、帽子に変えさせられた。一瞬でも衆人環視の中で素裸にさせられた14歳のプリンセスのストレスは如何なるものだったろうか。 フランス製に身を固めたマリ-・アントワネットは、広間中央に置かれたテ-ブル(国境のシンボル)の手前からオ-ストリアからの付き添い役シュタ-レムベルク伯爵に手を取られて、向かい側へテーブルを廻り、フランス側の付き添い役の手に委ねられた。着飾ったブルボン家の使節たちは恭しく挨拶をし、オ-ストリアの随員たちはゆっくり後ずさりして部屋を出て行った。 この時、マリ-・アントワネットの緊張は頂点に達し、フランス側の第一付き人となる女官ノワイユ伯爵夫人が挨拶をすると、彼女は思わずその腕の中に身を委ねるようにして、一瞬しゃくりあげて泣いた。これは思っても見なかったオ-ストリア皇女の振る舞いであった。ブルボン家の使節たちは、この美しい感情の爆発に誰もが心を揺さぶられた。 こうしてマリ-・アントワネットは、たった一人で稀なる自身の運命に立ち向かって行ったのだ。この後、ストラスブルグ大聖堂の隣りの司教館に入るが、迎えたロアン司祭がドイツ語で挨拶をし始めると、彼女は「もうドイツ語は話さないで下さい。今日からは私はフランス語だけを聞きます。」と宣言した。14歳の少女は、“覚悟”という人間の品格を示したのだった。 ウィ-ンを出て27日目の5月16日の朝、マリ-・アントワネットは、初めてヴェルサイユ宮殿の金の門をくぐった。この同じ日、宮殿のチャペルで正式の結婚式が執り行われた。 マリ-・アントワネットの人生の本舞台の幕が切って落とされた。(次のエピソ-ドに続く) 筆 平井愛子 フランス政府公認ガイドコンフェランシエ、ソルボンヌ・パリ第4大学美術史・考古学部修士、同DEA(博士課程前期)、エコ-ル・ド・ルーヴル博物館学

ヴォ・ル・ヴィコント城とニコラ・フ-ケの悲劇 (下)

1661年8月17日は運命の日であった。ルイ14世が2回目にヴォ・ル・ヴィコントを訪れた日のことである。 フ-ケは、王を迎える準備に全神経を傾け、城の中は豪華を極めた装飾がここそこに施された。 “ヴォーは、その夜以上に美しかったことはなかった”とジャン・ド・ラ・フォンテ-ヌは書き残している。 王と皇太后を始め、王廷の招待客たちは17日の夕方6時頃ヴォ-の城の前に降り立った。彼らはまず見上げる美しい建物に感嘆した。ファンファ-レが鳴り響き、ニコラ・フ-ケは玄関前の階段の最上段に立って、満面の笑顔で王の一行を迎えたが、この時の光景は、どちらが王か見紛うほどであったという。 玄関ホ-ルに入ると、目前にル・ノートルの庭園が美しく広がっている。夏の暑さに、まず噴水が二つの壁をつくるがごとく噴出る中をプロムナ-ドは開始された。50の泉と200の噴水、大きな運河、小さな滝があちこちに流れ落ちている。 ルイ14世は、これだけの水が地から湧き出て踊っているのを見たことがなかった。城の広い敷地の周りは広大な麦畑に囲まれているが、その真ん中にどうやってこれだけの水を出す事ができるのか。この配管設備はイギリスからやって来たばかりで、国に属するものであるが、フ-ケはちゃっかりこのヴォーで使用したのだった。 藪のここそこには、音楽師達がバイオリンやフル-トを奏でていた。城内のサロンを見て行くと、壁に掛かるタピスリ-には金が織り込んであり、ギャラリ-にはル・ブランの手によるルイ14世の肖像画も飾られていた。これには王も喜び、“心からの満足である”と言葉を発した。 大サロンの天井画は瑞々しい花々と女神がル・ブランの手で描かれ、その新鮮さに招待客たちは目を見張った。しかし、描かれた新しい天体の中央にフ-ケを意味する“リス”の紋章が描かれているのを王は見逃さなかった。 晩餐会には、歴史的料理人ヴァテルが采配を振るった30種類の料理が並び、500組の皿と36組の大皿は銀製、金のフォ-クとナイフ、王の側に置かれた砂糖入れも金色に輝いていた。思わずルイ14世が“素晴らしい金メッキだ”というと、フ-ケは“殿下、これはメッキではなく、金でございます”と答えたのだ。 モリエ-ルは、彼の初めてのコメディ・バレエ“困り者”(Les Fâcheux)を上演し、これはルイ14世を多いに喜ばせた。この後、花火があがり、城と運河のあたり一面に空から宝石が降ってくるようであった。花火の後は“宝くじ”まで催され、景品には宝石や馬などが配られた。 想像するだけでも、目眩めくようなイヴェントであったに違いない。 しかし午前2時、ルイ14世は突然、帰るとサインし、一行はけたたましくヴォを去って行った。若いルイ14世にとっては、あまりにも自分には及ばない力と世界を見せ付けられた思いであったに違いない。加えて王の一行は真夜中の道中、道に迷ってしまった。ルイ14世の惨めな思いは黒い怒りと変わっていくことになった。 9月5日、王は滞在先のナントにフ-ケを呼んだ。フーケは喜んで駆けつけたが、彼は公金横領罪で逮捕されてしまう。同時にフ-ケの城も財産も凍結されて調べられた。この時以来、ニコラ・フ-ケは二度と再びこのヴォ・ル・ヴィコントを見ることはなかった。 裁判では、フ-ケの反論は明解で判事の中にはフ-ケの公金横領の起訴自体に疑問を持つ者もいて、一度は判決が国外追放になるが、これに怒ったルイ14世はフ-ケを全監獄の中で一番厳しいアルプス山中のピニュロ-ルの監獄へ閉じ込めた。 ニコラ・フ-ケは亡くなるまで、約20年間この牢獄を出ることはなかった。しかし、獄中で彼は身の潔白を綴った原稿を家族の手を通じてオランダで秘密裏に印刷し、この出版はニコラ・フ-ケ自身の貴重な資料となって、現在も保管されている。 1680年3月、ルイ14世は年老いて病気になっているニコラ・フ-ケの出獄を決めるが、出獄日3月23日を目前にした21日にフ-ケは急死してしまうのだ。この謎めいた急死は毒殺が定説になっている。 フ-ケの死後、所有者は変わり、更にフランス革命はこの城を破壊の運命へ追いやるかに見えたが、ナポレオンの台頭で革命も終わり、ヴォ・ル・ヴィコントは救われた。 その後この領地は次第に荒れ果てて行くが、1875年、競売で新たな所有者になった事業家のアルフレッド・ソミエのおかげで奇跡的にヴォ・ル・ヴィコントは蘇り、今もその子孫がこの城を守っている。不思議な生命力をもって復活したのだ。 現在、フランスの個人の建物としては一番大きい歴史記念物として指定されている。見事に修復された城と庭園は、フ-ケの在りし日の繁栄を伝え、17世紀のフランスの3人の芸術家たちが彼らの力を存分に発揮した珠玉の名建築である。 筆:平井愛子 フランス政府公認ガイド・コンフェランシエ ソルボンヌ・パリ第4大学美術史・考古学部修士、同DEA、エコ-ル・ド・ルーヴル博物館学

ヴォ・ル・ヴィコント城と二コラ・フーケの悲劇(上)

パリ東駅からムラン(Melun)経由の郊外電車に乗って40分。ヴェルヌイユ・レタン(Verneuil l’Etang)駅で降りるとヴォ・ル・ヴィコント(Vaux-le-Vicomte)城行きのシャトルバスが待っている。平坦な畑の中を15分程走ると道は素敵な並木路へと導かれ、しばらくすると右側に視界が開けて、そこに美しいヴォ・ル・ヴィコントの城が佇んでいる。この城こそが、17世紀中期のクラシック様式建築の傑作として、その後150年間、ヴェルサイユを始めとしてフランス城郭建築のモデルとなったものである。 1653年、当時フランスの大蔵卿になったばかりのニコラ・フ-ケ(1615ー1680)はそれより以前に購入したヴォの広大な土地に、自分の人生の証となる城を建設しようと思い立った。当時フランスでイタリア建築の第一人者であった建築家のルイ・ル・ヴォ、画家のシャルル・ル・ブラン、庭師のアンドレ・ル・ノートルにその建設を依頼した。フランス最高のア-チスト3人は、それぞれの持てる力を傾注して今までにないスタイルの城を創り上げた。 正面の鉄柵にリズムよく添え付けられている彫刻も独特で、とてもオリジナルな門構えである。ヴォ・ル・ヴィコントは煉瓦は使わず、クレイユ(パリの北、オワ-ズ川沿いの町)の石を使って全体が白色である。屋根はこれまでになく高く、中央に聳えるド-ムはその骨組みの工夫が中から登って見学できるようになっている。 正面玄関は、ア-チが付いた3つの扉が開き、その上の三角形のペディメントの上にはアポロンと神々の母レアの彫刻が人々を迎える。そして、ニコラ・フ-ケの紋章である“リス”がそのペディメントの中央に描かれている。玄関ホ-ルに続く楕円形の大サロンの庭側にあるやはりア-チ付きの3つの扉を全開すると、見事な庭園の全貌が見渡せるようになっている。遥か彼方に金色に輝くヘラクレスの像が望まれ、望遠効果が考慮された庭園は初期フランス・バロック様式庭園の傑作である。 大サロンにはコリント式柱頭の平たい柱が施され、その前にギリシャの皇帝達の胸像がグレ-の大理石の丸柱の上に置かれている。ギリシャ古典のモチ-フは城内のここそこに見られ、このような建築と装飾は当時、どこにもない新しいスタイルであった。 ニコラ・フ-ケは若くしてその頭角を現し父フランソワ・フ-ケの海運会社と東インド会社で働いた後、父がリシュリューの側近であったことも手伝って、27歳で国務に従事する。リシュリューの亡き後、マザランがその後継者となり、ニコラ・フ-ケはこのマザランに用いられて1646年、31歳でパリの行政長官となる。フロンドの乱では、マザランは亡命せざるを得なかったが、その間、ニコラ・フ-ケはマザランの財産を守り、情報を提供した。 マザランがパリに戻るとその報酬に大蔵卿の地位を獲得する。フランスの経済は長引く戦争(30年戦争)で破綻に近かったが、ニコラ・フ-ケは長年の赤字を短期間で黒字にしている。彼は投機と貸付金を取り入れ、時には国の為に自己の財産を投入した。しかしその貸付金率は20%という高いもので、それによって彼はもともと妻の持参金によって充分に裕福だった自分の財産を更に増やしていった。やがて自分の財産と国の財産との境目が不明確になっていくのである。マザランはニコラ・フ-ケの財産が自分のそれを越えるようになると、コルベ-ルを用いて監視させた。そしてこのコルベ-ルの執拗な追究によってフーケは追い落とされることになるのである。 城の建築工事とともに、フ-ケはヨーロッパ一流の絵画、彫刻、家具など見事なコレクションを作っていった。彼はタピスリ-の制作に優秀な職人を集めアトリエを作って織らせた。コルベ-ルは後にこれらの職人を集めゴブラン製作所を作った。 シャルル・ル・ブランが描いた天井画には彼の絶頂期を証明するかのように、瑞々しいミュ-ズ達が踊り、ヘラクレスは天を駆け、ヴェロネ-ゼの“アンドロメダを救うペルセ”(レンヌ美術館蔵)やランベ-ル・シュスリスの“ヴィ-ナスとアム-ル”(ルーヴル美術館蔵)などの名画が壁を飾っていた。これらのすべてはルイ14世の周りにはなかったものである。眩いばかりのヴォ・ル・ヴィコントの世界は23歳のルイ14世にニコラ・フ-ケの存在を許さない不退転の意志を決定させたのだ。(次回に続く) 筆:平井愛子 フランス政府公認ガイド・コンフェランシエ、ソルボンヌ・パリ第4大学美術史・考古学部修士、同DEA、エコ-ル・ド・ルーヴル博物館学 

文豪シャト-ブリアンの館 ラ・ヴァレ・オ・ル―(パリ郊外)

フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン(1768年サンマロ生-1848年パリ没)はフランスのロマン主義の先駆者であり、フランスを代表する大文豪である。ヴィクトル・ユ-ゴ-(1802-1885)はシャト-ブリアンを師と仰いで、14才の日記に“ぼくはシャト-ブリアンのようになりたい。そうでなければ人生は無だ。”と記している。 その彼の館がパリ郊外のソ-市の近く、ラ・ヴァレー・オ・ルーにある。 RER・B線のRobinson行きに乗って終点で降り、標識に従って閑静な住宅街の小道を辿って行くと、ラ・ヴァレー・オ・ルーの鬱蒼とした林に出る。この林の中の小道を登ったところに、シャト-ブリアンの館がある。広いイギリス式庭園をもったネオクラッシクと中世スタイルの曖昧う18世紀の館である。 ここに、シャト-ブリアンは1807年から1818年まで、妻のセレストと暮した。彼がナポレオンの批判を書き、パリ追放を余儀なくされ、この領地を購入したのである。40才の時であった。 シャト-ブリアンはこのラ・ヴァレー・オ・ルーを生涯の地とするつもりでいたので、館の改装工事、庭の整備、植樹などに借金までして力を注ぎ込んだ。 館の南側ファッサ-ドにある白大理石の2体のキャリアチ-ド(女体像)と黒大理石の2本の柱、三角形ペディメントが施されたギリシャ風の玄関はシャト-ブリアン自身の設計である。 ジャン=ジャック・ルソ-の思想に影響を受け、自然には人一倍関心の高かった彼は植物学者ほどの知識をもって、更に自ら庭師となって、多くの植樹を行った。旅先から持ち帰ったレバノン杉、エルサレム松、アメリカキササギ、グラナダの月桂樹、ギリシャのプラタナスなどが今も聳え立っている。ナポレオンの后、ジョゼフィ-ヌから贈られた深紅のマニョリア(モクレン科)も見ることができる。そしてこの広大な庭の一角に彼が著作に勤しんだ書斎でもあったヴァレダの塔も残っている。 シャト-ブリアンは、このラ・ヴァレー・オ・ルーの家で「殉教者」、旅行記「パリからエルサレムへ」、「モ-ゼ」、「亜パンラセ-ジュ族最後の人の物語」などの代表作を上梓する。又、後に出版された「墓の彼方の回想」、「歴史研究」もここで書き進められた。 彼の有名な「アタラ」、「キリスト教精髄」はフランス革命の激烈さに亡命していたロンドンから1800年に帰還した後、出版され、特に後者はナポレオンのキリスト教復活政策に大きく貢献した。そしてこの成功はシャト-ブリアンにロ-マ公使館・書記官のポストを齎しロ-マに赴任するも、ローマ公使と仲たがいをして帰国。その後彼は、ナポレオンによるブルボン家アンギャン公不当逮捕と処刑に憤慨し、反ナポレオンとなる。ナポレオンはこのようなシャト-ブリアンに憤慨しつつも、その文学的才能は高く評価していたといわれる。 1814年、ナポレオンが退位すると、シャト-ブリアンの政治生活が復活する。王政復古を支持するが、ナポレオンの百日天下には、ルイ18世と共にベルギ-に亡命し、臨時内務大臣に任命されるが、ルイ18世の政策を批判し嫌われ、王の帰還後に用いられることはなかった。 このような経緯で、経済的困難に陥ったシャト-ブリアンは丹精込めたラ・ヴァレー・オ・ルーを手放す以外になかった。彼が生涯を通して愛したレカミエ夫人の紹介で、彼女の親しい友人マチュ-・ド・モンモランシーが購入した。 レカミエ夫人は、モンモランシ-の招きで1818年から1826年まで特に夏をここで過ごした。しかし、モンモランシ-はシャトーブリアンがここを訪れる事を拒んだので、二人はこの館で会うことはなかった。彼女はここで、シャト-ブリアンの「我が人生の回想」の原稿を清書している。 尚、ジャック=ルイ・ダヴィッドのレカミエ夫人の肖像画に描かれている長椅子がラ・ヴァレー・オ・ルーの館に展示されているが、レカミエ夫人滞在の象徴として、この館がシャト-ブリアン記念館として会館する際に購入されたものである(1987年)。 ルイ18世時代のヴィレ-ル内閣のもとでは、プロイセン公使、イギリス大使、外務大臣を歴任して活躍。しかしヴィレ-ルと仲が悪くなり、1824年外相の地位を追われた。 因みに、イギリス大使をしていた時に、牛のヒレ肉の中央部分を好んで、料理人にステ-キを度々作らせたので、シャト-ブリアン・ステ-キの名が生まれた。 ルイ18世の死で王位に就いたシャルル10世は、専制政治を敷いたために1830年7月革命が起こり、退位。オルレアン家のルイ=フィリップが王位に就くが、シャト-ブリアンは正統王朝派として、オルレアン家に仕えるのを良しとせず上院議員の地位も捨てて、執筆活動に専念していく事になる。 シャト-ブリアンの波乱に満ちた人生の変遷は、絶え間なく変化した時代のせいだけではなく、その自尊心の非常なる強さと気難しさにあったようだ。孤高の人であった。 ヴィクトル・ユ-ゴ-は、 “シャト-ブリアン氏は才能によるよりも、その性格によって年を取っている。文句屋で気難しい。”と1836年の日記に記している。 シャト-ブリアンは生涯を通じて、多くの有名女性達と浮名を流しているが、妻のセレストとは最後まであまりうまくいってなかったようである。 シャトーブリアンとレカミエ夫人の出会いは1817年スタ-ル夫人の家での晩餐会であった。お互いが一目ぼれであった。レカミエ夫人はヨーロッパきっての美人で才媛で、ル-ヴルにあるジャック=ルイ・ダヴィドの有名な肖像画はナポレオンが彼女を口説くためにダヴィドに描かせたものである。レカミエ夫人の拒否によって、この絵は未完成に終わった。 レカミエ夫人は、その後財産を失って修道院アベイ・オ・ボアにアパルトマン(パリ6区)を借りることになったが、シャト-ブリアンは近くのリュ・ド・バックに転居し、毎日レカミエ夫人のもとへ通いその晩年を過ごした。妻のセレストはパリの自宅で1847年に亡くなる。 一方、レカミエ夫人は老年期に入っても才媛の魅力は衰えず、この修道院の一角に随分の文化人たちが集ったのである。シャト-ブリアンは勿論それらの文化人の頂点にいたのである。 1848年、シャト-ブリアンはレカミエ夫人の腕に抱かれて波乱の人生の幕を閉じた。80才であった。 ラ・ヴァレー・オ・ルーの地は、シャト-ブリアンの波乱の人生にとって、最も平安な人生の一時を過ごしたところなのである。 行き方 :RER・B線Robinson下車、徒歩20分、バスは巡回が少ないので徒歩が確実。 開館時間:(火-土)10h-12h、14h-18h(日)11h-18h 筆 平井愛子 フランス政府公認ガイドコンフェランシエ、ソルボンヌ・パリ第4大学美術史・考古学部修士、同DEA、エコ-ル・ド・ルーヴル博物館学

オディロン・ルドンの原風景 ペイルルバド荘園(ボルド-郊外)

突然の新コロナウィルスの発生と蔓延で、フランスも3月17日より外出自粛になり、近所のス-パ-に行くのにも、散歩するのにも証明書を携帯せざるを得ない状況になった。そんなある日、或る日刊紙のインタ-ネット版で、オディロン・ルドン(1840年ボルド-生-1916年パリ没)の記事を偶然目にした。紹介されていたのは、鮮やかなブル-の花瓶に生けられた色とりどりの花々が幻想的に描かれたパステル画であった。コロナウィルスで突然瀕死状態に陥る方々のニュ-スや、治療法も見つからない混乱の最中に、このルドンのパステル画はウィルスを吹き払う爽やかな風と新鮮な空気を送ってくれているかのように感じて、心から感動した。そして長年忘れていた絵心が突然心に芽生えて、ス-パ-の店先に置いてあったチュ-リップの花を買ってきてスケッチし、探し出した色鉛筆で色彩を施して、それでも嬉しい気持ちになったのであった。 この有名な“グランブ-ケ”は、ルドンが60才になろうとする頃に、ブルゴ-ニュに城を持つ、ルドンの作品の収集家であり友人でもあったドムシ-男爵の注文によって描かれたものである。この城の食堂を飾る装飾画連作の中央パネルがグランブ-ケであった。1901年に完成している。2,5m x 1,6mの大きさである。これらの装飾画は1980年、ドムシ-家から国家に相続税物納として譲渡され、オルセ-美術館に現在は展示されているが、このグランブ-ケは譲渡作品の中には入っておらず、近年三菱一号館美術館の所蔵となり、何と日本にあるのだ。 ルドンは1840年、ボルド-で生まれるが生来の虚弱体質であったためにボルド-郊外のペイルルバド荘園へ乳母とともに送られ、11歳までここで育つ。この荘園は今は名高いワインの産地メドックの真っ只中にあるが、当時は葡萄園と未耕作地からなる私有地で単調な田舎の荒地であった。しかし繊細な少年ルドンにとっては格別な意味を持った環境になって行く。「子供の時、私はくらがりが好きでした。厚いカ-テンの下や、家の暗い片隅や、色々な遊びをする部屋などに身を潜ませると不思議な深い喜びを味わったことを覚えています。」と“芸術家の打ち明け話”に述べているが、ルドンの“黒”の世界はここで育まれたのだ。 その後ルドンはボルド-で学校生活、22歳を過ぎてパリ国立美術学校には入れなかったが、アカデミズムの重鎮ジャン=レオン・ジェロ-ムの教室に通いだす。しかし新古典主義の技法には耐えられず、帰郷した。最悪の精神状態を取り直したのは、このペイルルバドであった。「私の生活は、都会と田舎の間で交互に行われた。田舎の生活は、いつも休息を与え、体力を回復させるとともに、新しい視野を与えた。」。そしてパリの生活は知的な跳板を与え、彼自身も「芸術家は絶えずその上で自己を鍛えなければならない」と努力を続け、木炭画の神秘的な世界をペイルルバドで創作していった。 ルドンは1886年、長男を亡くし落胆するが、3年後の1889年次男アリが生まれ、ルドンに大きな希望を与えた。50歳を目前にしてである。この頃からルドンは徐々に色彩を使いだす。「私は昔のように木炭画を描こうと思いましたが、だめでした。それは木炭と決裂したということです。実を言えば、私達が生きながらえるのは、ただただ新しい素材によってなのです。それ以来私は色彩と結婚しました。」(1902年7月21日付けのモ-リスファ-ブル宛の手紙)。含蓄のある言葉である。色彩画家に変身を遂げるルドンは象徴派を含む新しい傾向の芸術を追求していた若い画家達の先導者ともなり、モ-リス・ドニが描いた「セザンヌ礼賛」(オルセ-美術館蔵)は、中央にセザンヌの絵があるが、ナビ派の画家達に迎えられているのは向かって左側に描かれたルドンである。 ルドンに常にインスピレ-ションを与えてきたペイルルバドは、兄が父ベルトランの没後管理をしていたが経営に行き詰まり、1898年に残念ながら売却されてしまった。ルドンは“黒”のインスピレ-ションの場を失った。しかし、この後、鮮やかな色彩の夢幻的ともいえる名作品を彼は創造していくのだ。「我々はある場所に見えない糸でつながっている。創造する人間にとって、それは内臓のようなものだ。」の言葉通り、ペイルルバドはルドン自身の中に昇華されて彼は色彩画家と生まれ変わったのだ。 このペイルルバドは所有者が何人か入れ替わり、現在はロスチャイルド家が所有し、メドックでも有名なワイナリ-になっている。 筆 平井愛子 フランス政府公認ガイド・コンフェランシエ、ソルボンヌ・パリ第4大学美術史・考古学部修士、同DEA、エコ-ル・ド・ルーヴル博物館学

アルルのゴッホ

冬の晴れた日、ゴッホ(1853ズンデル生-1890オ―ヴェ-ル・シュル・オワ-ズ没)の足跡を辿ろうと思い立ち南仏アルルを訪れた。アルルの駅は以外に小さかった。駅前のラマルチ-ヌ広場を横切って古代の城壁に繋がるカヴァルリ門を潜ると旧市街に入る。そのすぐ右側にゴッホが住んだ“黄色い家”があった一角がある。その家はもうすでに無いが、黄色の家の背景の建物はいまだにあってそれが偲ばれる。 前方にロ-マ時代の遺跡円形闘技場が目に入る。円形闘技場から道なりに右へ曲がっていくと、今度は古代劇場の遺跡がある。更に往時の歴史が刻まれているかのような小路を進むとレプブリック広場が開け、中央にはロ-マ時代のオベリスクが聳えている。広場には17世紀にジュ-ル・アドワン・マンサ-ル(ヴェルサイユの鏡の間を建設)によって建設された市役所と、南フランスのロマネスク美術の完璧な例ともいわれる聖トロフィ-ム教会のファッサ-ドの見事な彫刻群が歴史を物語っている。市役所の裏の道を右に曲がるとフォ-ラム広場が開け、ゴッホの描いた“夜のカフェ”があった。アルルは小さな町で迷うことを恐れずに散策ができ、どんな通りにも古い石を使った門や壁が見られ、古代と共存している不思議な魅力に満ちている町である。 アルルは紀元前6世紀頃、ギリシャ人によって創設され、その後ケルト人が占領し、更に紀元前123年にロ-マ人によって占領された。運河も建設されてマルセイユを凌ぐ重要都市として発展し、アルルに今も残るロ-マ遺跡とロマネスク様式の建築群が1981年にユネスコ世界遺産に登録されている。 ゴッホがアルルにやってきたのは1888年2月21日であった。2年間のパリ生活(1886年3月1日-1888年2月20日)で200枚の絵を描き、印象派の画法や点描なども取り入れて独自のスタイルを生み出そうと努力を重ねたゴッホだった。パリでは驚くほどのア-チスト達と交流したゴッホだったが、その殆どとあまり良い人間関係は築けなかった。弟のテオは当時母親に“兄さんは誰とも喧嘩するので手に負えない”と書き送っている。やがて都会の喧騒と人間関係が上手くいかないことなどでパリを離れ、ゴッホは南仏のアルルに旅立つ。 ゴッホは日本の浮世絵に大いに魅せられ、モンマルトルのルピック通り54番地のアパルトマンには日本の版画が壁に鋲で貼ってあった。彼は自分の想像した“日本の光り”を求めてアルルに出発したのだ。アルルに着いて、ゴッホはテオに“僕は日本にきたような気がする”と手紙に書いている。他の手紙には“南仏に滞在したいわけは、次の通りである。日本の絵が大好きで、その影響を受け、それはすべての印象派画家達にも共通なのに、日本へ行こうとはしない-つまり日本に似ている南仏に。結論として、新しい芸術の将来は南仏にあるようだ。”とまで言っている。ゴッホ特有の思い込みがないとは言えないが、日本の絵の真髄を掴もうとの懸命な気持ちが伝わってくるようだ。そして彼はここに画家たちの共同体を創ろうと夢想した。その呼びかけに実際アルルにやってきたのはゴ-ギャンだけであった。 ゴ-ギャンはアルルに来ることは気が進まなかったが、重なる借金をゴッホの弟テオが肩代わりしてくれた上に経済援助をしてくれるという約束で来たもので、ゴッホと画家の共同体を創ろうなどとは露ほども思っていなかった。更にこの2人の個性の強さと気性はお互いに相容れるものではなかった。この人間関係の緊張はゴッホの精神を混乱に陥らせ、遂に彼は自分の片耳を切り落とし、なじみの売春婦に届けるという悲劇的奇行を生むことになってしまった。ゴッホはアルルの病院に入院し奇跡的に回復するが、精神の発作は止まずアルルの住民達の彼に対する危険視にアルルを離れざるを得ず、自らサン・レミ-の精神病院に入院した。こんな激しい夢想と絶望と激高の人生の荒波に翻弄されながら、ゴッホは、“ひまわり”、“跳ね橋”、“ロ-ヌ河の夜”、“夜のカフェ”などの代表作を次々と生み出している。 ゴッホはアルルには14か月半滞在したが、この間200枚の作品を描いた。2日に1枚のピッチで描いている。驚くべき情熱である。まるで制御不能の激情が炎のように燃え盛って、“愛”も“理想”も“怒り”も“不安と絶望”も、あらゆるものが過剰の人生であった。しかし、ゴッホはこのアルルで確実にゴッホなるものを生み出したのだ。ゴッホが愛したアルルは小さい町だが歴史と芸術の忘れがたい町である。 執筆:平井愛子 フランス公認ガイド・コンフェランシエ、ソルボンヌ・パリ第4大学美術史・考古学部修士、同DEA、エコ-ル・ド・ルーヴル博物館学

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