ヴォ・ル・ヴィコント城と二コラ・フーケの悲劇(上)

パリ東駅からムラン(Melun)経由の郊外電車に乗って40分。ヴェルヌイユ・レタン(Verneuil l’Etang)駅で降りるとヴォ・ル・ヴィコント(Vaux-le-Vicomte)城行きのシャトルバスが待っている。平坦な畑の中を15分程走ると道は素敵な並木路へと導かれ、しばらくすると右側に視界が開けて、そこに美しいヴォ・ル・ヴィコントの城が佇んでいる。この城こそが、17世紀中期のクラシック様式建築の傑作として、その後150年間、ヴェルサイユを始めとしてフランス城郭建築のモデルとなったものである。

1653年、当時フランスの大蔵卿になったばかりのニコラ・フ-ケ(1615ー1680)はそれより以前に購入したヴォの広大な土地に、自分の人生の証となる城を建設しようと思い立った。当時フランスでイタリア建築の第一人者であった建築家のルイ・ル・ヴォ、画家のシャルル・ル・ブラン、庭師のアンドレ・ル・ノートルにその建設を依頼した。フランス最高のア-チスト3人は、それぞれの持てる力を傾注して今までにないスタイルの城を創り上げた。

正面の鉄柵にリズムよく添え付けられている彫刻も独特で、とてもオリジナルな門構えである。ヴォ・ル・ヴィコントは煉瓦は使わず、クレイユ(パリの北、オワ-ズ川沿いの町)の石を使って全体が白色である。屋根はこれまでになく高く、中央に聳えるド-ムはその骨組みの工夫が中から登って見学できるようになっている。

正面玄関は、ア-チが付いた3つの扉が開き、その上の三角形のペディメントの上にはアポロンと神々の母レアの彫刻が人々を迎える。そして、ニコラ・フ-ケの紋章である“リス”がそのペディメントの中央に描かれている。玄関ホ-ルに続く楕円形の大サロンの庭側にあるやはりア-チ付きの3つの扉を全開すると、見事な庭園の全貌が見渡せるようになっている。遥か彼方に金色に輝くヘラクレスの像が望まれ、望遠効果が考慮された庭園は初期フランス・バロック様式庭園の傑作である。

大サロンにはコリント式柱頭の平たい柱が施され、その前にギリシャの皇帝達の胸像がグレ-の大理石の丸柱の上に置かれている。ギリシャ古典のモチ-フは城内のここそこに見られ、このような建築と装飾は当時、どこにもない新しいスタイルであった。

ニコラ・フ-ケは若くしてその頭角を現し父フランソワ・フ-ケの海運会社と東インド会社で働いた後、父がリシュリューの側近であったことも手伝って、27歳で国務に従事する。リシュリューの亡き後、マザランがその後継者となり、ニコラ・フ-ケはこのマザランに用いられて1646年、31歳でパリの行政長官となる。フロンドの乱では、マザランは亡命せざるを得なかったが、その間、ニコラ・フ-ケはマザランの財産を守り、情報を提供した。

ニコラ・フーケ

マザランがパリに戻るとその報酬に大蔵卿の地位を獲得する。フランスの経済は長引く戦争(30年戦争)で破綻に近かったが、ニコラ・フ-ケは長年の赤字を短期間で黒字にしている。彼は投機と貸付金を取り入れ、時には国の為に自己の財産を投入した。しかしその貸付金率は20%という高いもので、それによって彼はもともと妻の持参金によって充分に裕福だった自分の財産を更に増やしていった。やがて自分の財産と国の財産との境目が不明確になっていくのである。マザランはニコラ・フ-ケの財産が自分のそれを越えるようになると、コルベ-ルを用いて監視させた。そしてこのコルベ-ルの執拗な追究によってフーケは追い落とされることになるのである。

城の建築工事とともに、フ-ケはヨーロッパ一流の絵画、彫刻、家具など見事なコレクションを作っていった。彼はタピスリ-の制作に優秀な職人を集めアトリエを作って織らせた。コルベ-ルは後にこれらの職人を集めゴブラン製作所を作った。

ヴィ-ナスとアム-ル ランべ-ル・シュスリス画 ル-ヴル美術館蔵

シャルル・ル・ブランが描いた天井画には彼の絶頂期を証明するかのように、瑞々しいミュ-ズ達が踊り、ヘラクレスは天を駆け、ヴェロネ-ゼの“アンドロメダを救うペルセ”(レンヌ美術館蔵)やランベ-ル・シュスリスの“ヴィ-ナスとアム-ル”(ルーヴル美術館蔵)などの名画が壁を飾っていた。これらのすべてはルイ14世の周りにはなかったものである。眩いばかりのヴォ・ル・ヴィコントの世界は23歳のルイ14世にニコラ・フ-ケの存在を許さない不退転の意志を決定させたのだ。(次回に続く)

筆:平井愛子 フランス政府公認ガイド・コンフェランシエ、ソルボンヌ・パリ第4大学美術史・考古学部修士、同DEA、エコ-ル・ド・ルーヴル博物館学 

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